江戸町~小島エリア 長崎の中心部にある、歴史のある坂道
坂No.06 県庁坂(江戸町)
今も昔も官公庁が立ち並ぶ、長崎の中心地
官公庁が立ち並ぶ長崎の中心部にある、交通量の多い坂。
現在の県庁の場所は17世紀初頭にはイエズス会本部が建てられていたが、禁教令が出された後長崎奉行所が移された。
県庁前から中央橋と大波止へと下るこの坂は、8月15日には「精霊流し」のメインストリートとなる。
最大斜度 8度 マニア度★☆☆☆☆
長崎県庁庁舎。ここを頂上に左右に下る県庁坂は国道202号線、4車線で多くの車が行き交う。官公庁やオフィスが並ぶビジネス街と長崎最大の商業地である浜の町とを結ぶ幹線道路。
大波止の海岸から県庁へ向かう坂。正面の白い建物は1923年新築当時は長崎警察署だった(現在は県庁別館)。入口には「南蛮船来港の波止場跡」の石碑が立ち、埋立て以前はこの坂の下まで海が迫っていたことがわかる。
坂No.07 喧嘩坂(大音寺坂)(万才町)
ささいな喧嘩から「長崎版忠臣蔵」に
検察庁から築町市場へと続く石段。
1700年の大雪の日、この坂で深堀藩士が躓いてはねた泥が町年寄高木彦右衛門の仲間にかかり喧嘩になったのを発端に、後に「長崎版忠臣蔵」と言われる討ち入り事件にまで発展。
この騒動以来、この坂は「喧嘩坂」と呼ばれるようになった。
最大斜度 12度(石段) マニア度★★☆☆☆
坂の上から築町市場方面を見下ろす。普段は喧嘩など起こりそうもない静かな坂。1583年この場所にキリスト教思想による病院と孤児老人施設ミゼリコルディア本部が建てられた。
喧嘩坂の名前の由来となった「長崎喧嘩騒動」の詳細がわかる説明板。天満坂とはこの坂の別名。平和な時代だったとはいえお侍さんは大変でした。※画像クリックで拡大
坂No.08 幣振坂(寺町)
ドラマチックな物語が名前の由来
多くの寺院が並ぶ寺町から風頭山へと続く、映画のロケ地にもなった坂道。
諏訪神社の大鳥居を建てるための石材を麓に降ろした際、宰領が御幣(紙を切り棒の先に垂らした神祭用具)を振って、人夫達を鼓舞し励ましたため無事降ろすことができたことに由来してこの名がついた。
最大斜度 10度 マニア度★★★☆☆
寺町通りから幣振坂を上っていくと左側に晧台寺がある。さらに上りつめて左に曲がると大音寺に出る。異国情緒豊かな長崎には珍しい日本的な趣のある坂。
こちらは長照寺と延命寺の間を通って風頭山に向かう幣振坂。突き当りにあるのは老舗の料亭一力。実は幣振坂と呼ばれる坂は長崎に3箇所ある。もう1箇所は筑後町の東本願寺横の石段。
坂No.09 丸山オランダ坂(丸山町)
実はこちらが本家の知る人ぞ知るオランダ坂
崇福寺入口から丸山へ上る、石段交じりの細い坂。
東山手のオランダ坂より前からあるため、本家オランダ坂とも言われる。
名前の由来は、かつて西洋料理店があったからという説と、出島へ出入りを許されていた丸山遊女がこの坂を通ってオランダ屋敷へ通ったからという説がある。
最大斜度 30度(石段) マニア度★★★☆☆
石段を上ると石畳の細い坂に出る。つきあたりを左に曲がっていくとかつて西洋料理店の福屋があった。(今の中小島公園付近)
坂を上ってつきあたりを右に曲がると料亭青柳(旧山崎屋)がある。さらに石段を下りると丸山本通りで、江戸時代ここには丸山遊郭の裏門があった。
坂No.10 ピントコ坂(上小島町)
悲しい愛の物語が名前の由来になった坂
小島から長崎南高校までの旧茂木街道を700mほど上る長く険しい坂。
唐の商人何旻徳(カ・ピントク)が贋金作りで処刑された場所で、恋人の丸山娼妓阿登倭がここで後を追った。
哀れに思った町の人がこの二人を一緒に葬った傾城塚(おいらん塚)が坂の途中に残されている。
最大斜度 15度 マニア度★★★☆☆
坂の中ほどにある「傾城塚」。「おいらん塚」とも「唐人塚」とも呼ばれ、非業の死を遂げた唐商人、何旻徳と丸山の娼妓、阿登倭が眠る墓である。
坂を上りきったあたりの風景。すぐ先には長崎南高校がある。ピントコ坂は急坂が続く長い坂道だが、この辺りが最も急勾配。